『1983ニューヨークピラミッド』
園木・横山・ペータ佐藤・金沢・稲熊・永田
左から星,横山,小畑
1980年、横山忠正(sa)、小畑伸一(g)、星浩明(b,tb)の3人によってスポイルは結成される。 当時、横山はクラウス・ノミのオペラ、ストレイ・キャッツのロカビリー、ブルー・ロンド・ア・ラ・タークのラテンというような古い音楽の新しい解釈にインスパイアされ、 それをジャズで置き換えられないかと模索していた。そこへクラフトワークに端を発するテクノのリズムを持ち込むことによりスポイルの原型が誕生。 当初、小畑のヴォーカルが入った曲もあったがサックス、トロンボーン、ギター、ウッドベース、リズムボックスというインストスタイルがベースとなる。 その初ライヴは廃墟となっていた都内のグランドキャバレー跡を使って行なわれた。続いて赤坂ニュージャパンの地下にあったニュー・ラテンクオーターでもライヴを行なっているが、 ここはプロレスラー力道山の刺殺事件が起きた場所としても知られていた。 なにやらいわくつきの場所でもあるが、当時の一般 的なバンドのイメージを覆すようなスポイルの存在は、口コミを通じて一部の人に伝わった。
スポイルはまだカフェバーという言葉がない頃から千駄 ヶ谷ライズバーでライヴを始め、ニューウェイヴとは質を異にする音楽を、深夜のバーに集まる人々に広めていく。 ライヴでは星がベースとトロンボーンのチェンジをすることから、サポートにルードフラワーに在籍する松本隆乃氏がベースで参加。 そこにはジャズをモチーフにしながらも、メロディアスでパンク、アートとしても成立する音楽が生まれていた。 そのエッセンスは今回の復刻音源とライヴ収録からも十分に聴き取ることが出来るだろう。 当時、横山はアートディレクターとして既に知られる存在だったが、スポイルの活動を知る桑原茂一氏らのスネークマン・ショー『急いで口で吸え』に参加している。 「STOP THE NEW-WAVE」はEXの梅林茂(g)、羽山伸也(ds)とのコラボレーションだが、そのブラックユーモアもスポイルのもう一つの顔だ。この縁があって彼らはライヴの客演もしている。 また横山はトーキングヘッズのサポートをしたプラスチックスに客演するなど、以降アートディレクター/ミュージシャンとしての2つの顔を持つことになる。 因みにこのアルバムジャケットのアートワークは横山によるものだ。
左から園木,横山,永田,星
左から星,横山,永田, 園木
81年春、雑誌編集者として私は横山と知り合い、ドラム募集のことを知る。それまで在籍していたスパイを脱退していたこともあり、すぐに加入してライヴを始めた。 夏頃になるとギターの小畑が脱退、後任にカメラマンの園木和彦がギターで加入する。この横山、星、永田、園木のラインナップにより、スポイルのサウンドはよりバンド化することになった。 横山曰く、「複数の人間によるノイジーな表現」というテーマが生演奏で再現されるようになったわけだが、ここでいうノイジーとはいわゆる雑音ではなく、 血の通 った人間が織りなす複雑なコラボレーションという意味である。これに松本を加えた5人により、スネークマン・ショー『死ぬのは嫌だ、恐い。 戦争反対!』にオリジナル曲「WISING YOU'RE HERE」を収録。これは横山、星によるホーンセクションも交えられたスポイルの代表曲とも言える。 しかしこのレコーディング直後に私はバイク事故で入院、スネークマンショー海賊盤テープの「ロックンロール・メドレー」には横山、星、園木の3人とEXの2人が参加している。
82年になるとライヴ活動が増えてくるが、そのスタンスをカフェバー、クラブといった場所にとっていたので、オープンしたての霞町レッドシューズ、原宿モンクベリーズなどでの活動が増える。 中でもレッドシューズには多様な人間が集まっており、夜10時、深夜1時という開演時間にもかかわらずスポイルのライヴは多くの人に目撃される。 1940年代のジャズ・ファッションであるズートスーツを着込んでいたこともあってか、これを観た菊池武夫氏はメンズBIGIのファッションショーでスポイルを生演奏させる。 この頃から立花ハジメ、リリィ、坂本龍一、PIGBAGのオリー・ムーアといったミュージシャン達が、夜中のレッドシューズで飛び入り演奏をしてセッションを繰り広げるようになった。
スポイルは原宿クロコダイルにも出演していたが、2月にはゲルニカとの2バンドによって同店最高動員記録を立てる。 5月には日比谷野音でのジャパン・ロック・フェスティバルにも出演、続いてキティレコードからアルバム制作の話が持ち込まれた。 この時期のライヴはとてもテンション感溢れるものだが、因みにアートディレクターである井上嗣也氏のADC最高賞受賞を記念して、『THE SPOIL for TSUGUYA INOUE』という音源が作られた。 そのマスターとなったカセットによるライヴ音源が、今回のマスタリングにより全編蘇生されている。 ここで繰り広げられているメンバーのケミストリーからは、デビュー直前のエネルギーが十分に感じ取れるだろう。しかしこの年の春にはベースの星が脱退。 メンバー探しをする中で、バナナリアンズに在籍していた甲斐圭三氏がベース、カルメン・マキと活動していた小玉 和文氏がトランペットで参加、東名阪ツアーも行っている。 因みに松本、星、小玉は後々にミュートビートを結成する。この間、横山、園木、永田の3人でレコーディングした「LIQUID IN PINK」が、カセットマガジンTRA』創刊号に収録。 横山のリーディングによる貴重な音源だが、それも今回のマスタリングによって蘇生され収録している。
左から金沢,稲熊,横山,園木,永田
(Brooklyn Bridge N.Yで)
"DAY AND NIGHT"
2005年3月31日再発
EGD-7/8 (BRIDGE INC.)
2枚組CD ¥3150(税込)
アルバム『DAY AND NIGHT』のレコーディングは82年の夏から行われ、同年11月25日にキティレコードからリリースされた。 今回の復刻音源ではそのオリジナルマスターがそのまま再現されているが、クラブの喧噪の中でのライヴとは趣の違う、静謐な空気感に満ちていることがわかるだろう。 レコーディングにはそれまで関わりのあったプレイヤーも参加して行われたが、レコーディング終了後にベースの稲熊慎司、トロンボーンの金沢アキラが加入、アルバムリリース直後、 この5人によってスポイルは米国ツアーを行った。 ニューヨークとロサンジェルスでの4公演というショートツアーだが、クラブカルチャーは既に米国でも火がついており、ニューヨークでは老舗とも言えるピラミッドクラブ、 そしてオープンしたばかりのリバークラブで行われた。そのレビューがTHE FACE誌にも掲載され、ビ・バップの影響やラウンジ・リザーズとの類似点などが評されていた記憶がある。 ニューヨーク滞在中、おりしもSOHOで開催されたペーター佐藤の個展会場では、勅使河原きり率いるイールドッグスとのジョイントライヴも行った。ロサンジェルス公演は1公演だったが、 いずれにせよ海外オーディエンスのレスポンスは好評だった。
83年になるとライヴの拠点は六本木インクスティックになる。 レッドシューズではフロアでのライヴをしていたが、インクスティックにはステージが設置されており、しっかりとしたライヴの出来るカフェバーとなっていた。 横山が故・松山勲氏と懇意だったこともあり、店のオープニングアクトを担当、店内には『DAY AND NIGHT』のジャケットにも掲載されているペインティング作品が多数展示、それは後々まで飾られていた。 3月には映像とのコラボレートによるスキャンニングプール主催イベントに出演、原宿ラフォーレ・ミュージアムで行われたパフォーマンスは高い評価を得ている。 アルバムリリース以降、UB40のオープニングアクトを始めとしたホールでのライヴも行うが、スポイルとしてはやはり六本木インクスティック、高樹町タクシーレーン、名古屋スパジオ、 京都ディービーズ、新宿ツバキハウスetc.といった全国のクラブ/カフェバーでの演奏を好んだこともあり、全国で続々とオープンするカフェバーのオープニング出演依頼が急増した。
そんな中で、和製キャバレージャズのルーツともいえる石原裕次郎の「霧笛が俺を呼んでいる」のレコーディングに取りかかる。もちろんこれはカバーだが、 ヴォーカルはスネークマン時代からの知り合いである伊武雅刀氏によるもの。プロデュースはDTBWFBに在籍していた千野秀一氏が担当。キティレコードからリリースされたこのシングルは、 坂本龍一のサウンドストリートを始めとして多くのラジオ番組でオンエアされる。この曲のシンパとして元スカパラのASA-CHANGは、笠置シズ子などのキャバレージャズの再発掘に興味を抱いたそうだ。 またこの時期、横山のペイントしたギターが六本木WAVEで販売され、その価格(50万程度)を見た布袋寅泰氏が驚愕したというエピソードもある。
左から園木,永田,金沢,森,横山
83年夏にはベースの稲熊が脱退、ニュールードフラワー〜リンボーリンドに在籍していた森雅信が参加する。 「霧笛が俺を呼んでいる」をライヴでやることもあり、関西のR & Bバンド、花伸に在籍した宮井操氏がヴォーカリストとしてライヴに参加していた時期もある。 この頃、ギターの園木は星浩明、森雅信らとのトロンボーンズでも 活動。因みにトロンボーンズには、現スカパラの北原雅彦氏も在籍、ラウンジ・リザーズの初来日にはオープニングアクトも行っている。
84年になっても和製キャバレージャズの再認識は続いた。夏には六本木インクスティックと並び語られた原宿ピテカントロプスが閉店、桑原茂一氏はスネークマン的な手腕で竹中直人氏の 『かわったかたちのいし』をプロデュース、スポイルはそこで石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」のカバーを収録する。 “おいらはドラマー、ヤクザなドラマー”の名フレーズとジャズドラマー白木秀夫の名演で知られるこの曲を、竹中氏とスポイルがブラックユーモアを込めて再現した。 そんな昭和バンドマンの心意気を気取ってか、この頃からスポイルのライヴ活動はカフェバーやクラブよりもさらにディープな世界へと広がり、中にはそれとは知らず、 某組織系のパーティに呼ばれて冷や汗をかくなんていうスリリングなブッキングもあった。しかし、この頃からメンバーのモチベーションは徐々に下がり、85年にはライヴ活動休止となるのである。 その後、横山は絵画へと移行、ピアニカ前田氏らと環境音楽的なアプローチを続けたが、約20年間スポイルとしての活動は行われていない。 しかしその後も、クラブシーンでは様々なDJやアーティスト達によって、ジャズのエッセンスが連綿と引き継がれているのは周知の事実。 今回のオリジナルアルバムとライヴ収録の復刻リリースにより、そんなクラブジャズの潮流をまた後押し出来れば嬉しく思う。
Writing by Hiroshi Nagata