笹百合
Kramer's Lily
2000 Tokyo Japan / Oil on Canvas 405φ
Gathered in the Miwa mountain / Takeki Komatu Collection
六月十六日は朝から大そう暑かった。盛夏が一日だけこうして早目に訪れて、やかましく陽光の鼓笛を鳴らして、夏の披露目をすることがあるものである。――― 『豊饒の海・奔馬』の第四章で書かれると同じように、大和の三輪は暑い夏で私を迎えてくれた。 日本最古の神社・大神神社の御山に咲く笹百合の花を奉納する百合祭「祭」は有名である。 その起源は古く、文武天皇の大宝元年(701年)制定の「大宝令」には既に国家の祭祀として規定されている。
官幣大社大神神社は、奈良盆地の東南、「山の辺の道」の南方に位置する奈良県桜井市三輪に鎮座する。 俗に三輪名神「お山」と呼ばれ、古くから人々に神体山と崇められている。御山自体が御神体とされ、神殿を持たないその参拝形式は、日本最古の信仰形態を今に伝えている。 三輪山は、海抜四百六十七メートル、周囲約一六キロ。美しい円錐形をしたお山である。 不思議なことに、春日山系は花岡岩から成っているが、三輪山だけは班糲岩から出来、長い年月の侵食から残され、万古不変の山容を堅持している。 生木は一本たり採ってはならず、不浄は一足たりと入る事の許されぬ「お山」は、杉、樫、けやきなどが生い茂り、太古の優姿のまま静まり返っている。 秀麓な山容には、山の主の大物の神が七巻半しておられるという伝説もあり、神の火(カンナビ)といって祖霊の鎮るところとしての古神道の源をなしている所でもある。
大和(ヤマト)とは、山の入り口を意味する普通名詞から来たものであったが、その後、奈良周辺の三輪山のふもとあたりを地名として指しヤマトと呼ぶようになったという。 その、大和の国は、三輪山を廻る諸豪族と、この辺りに都を構えた天皇との関係に極めて顕著な信仰的背景を見ることができ、政治的、宗教的にも文化の中心的位置にあった。 その地名が拡大して、日本の国を大和と指すようになった。
三輪神社の主なる御祭神は大物主大神であり、くわしくいえば倭大物主大神である。大物主大神が鎮まられたのは、『古事記』『日本書紀』にもでているように、遠い神代のことである。 社伝に依ると―――大物主大神が、自分の兄弟となって、ともに国造りに励んできた少彦明神をうしなってから、落胆のあまり自分ひとりでこれから先、 どのようにして国を治めることができるであろうか、どの神とともに国造りをしたら良いだろうかと思い悩んでおられた時、海を光らして依り来る神あり。 その神の申されるには、「我が前を能く治めれば(霊を祭る)、自分が一緒になって、国造りをしてやろう。もしそうでなければ国造りの大業は不可能である」と仰せられた。 そこで大国主神は、さらに「お祭り申し上げる方法はどうしたら良いのでしょうか」とたずねたところ、「自分を倭の青垣東の山上に斎きまつれ」と依せられた。 ―――大和の国の周辺を垣のように取りまいている青山の山上、つまり三輪にお祭りせよと仰せられたで、そのようにしてご奉齋されたのが起こりであるという。 また『古事記』では、神武天皇、皇后選定の項がいっそうくわしく書かれており、百合との関わりが偲ばれる。 すなわち、狭井川のほとりに現在も出雲屋敷と呼ばれている岡がある。この岡こそ神武天皇の皇后になられた伊須気余理比壷(書記ではヒメタタライスズヒメノミコト)の住居のあったところで、 川のほとりで七人の乙女が遊んでいたところへ神武天皇が来られ、前に立たれたる姫を皇后に選ばれたと伝えられている。
三輪駅は遠い記憶へと誘うような懐かしさの残るところであった。大鳥居を抜け、玉砂利の参道をゆるやかに迂回し、まず拝殿に詣でた。 『奔馬』では、今日の六月十六日には、境内に荒魂を祀る狭井神社があり、その時代には軍人の信仰も篤い事からも、ここに剣道試合を奉納する挙であった。 拝殿から北の方角へ進み、緑濃い参道のゆるやかな勾配を登るとそこに狭井神社がある。この参道の途中で笹百合の花に出会った。優美で強い香りには、敬虔な思に捕われるような清らかさを感じられた。 この三輪山に咲く笹百合の花を奉納するのが、率川神社の御例祭、三枝祭り(百合祭り)である。一般には、お山に登ることはできなかったと聞くが現在では入山許可を申請してから、登るのである。 狭井神社とは百合の葉の意で葉の幅の狭いことを指しているといわれている。この狭井神社で参拝し、お祓いを受けてからお山に登るのが慣わしである。
六月十七日・三枝祭り(百合祭り)日である、この日も朝から夏の空にお山が美しく映えた。神社は奈良駅から程遠からぬ奈良市本子守町に鎮座する。 率川神社は子守明神とも呼ばれ、中央の御殿に御子神媛踏備五十鷄鈴姫命をお祀りし、左殿に玉櫛姫命、右殿に狭井大神をお祀りし、父母神に囲まれるように三座鎮座しているため、 この特殊神殿は三座分用意とされている。三枝祭は、三枝の花(笹百合)をもって罎(そん)缶(ほとぎ)という酒樽を飾りお供え申し上げるので、その名で呼ばれる。 伊須気余理比壷は、神武天皇の皇后になられるまで、山百合の生い茂る狭井川の辺にお住まいなられていたことが伝えられており、その御縁故から御祭神の御霊をお慰め申すのに、 三輪山の笹百合の花を飾りお祭りを行うようになったという説である。又、笹百合は薬草であること、とくに百合科の中では一番薬効の高いことに深い意義があるとする説でもある。 黒酒(濁り酒)白酒(清酒)を罎(曲桶・黒酒を容れる)缶(壷・白酒を容れる)にいれ、その周囲を簾のように、笹百合を一本一本束ね編んだもので巻かれている。 すなわち罎のまわりを百合の茎が隙間なく囲み、一対の百合の花束にしかみえない。その百合の花の強い芳香に包まれた罎・缶の中から、神官が百合の茎を分け杓で酒を汲みあげてお給仕申し上げ、 神の御前にて、緋の袴姿の四人の坐女が頭にヒカゲノカズラ、手にスギの葉に添えた笹百合をかざし、神楽に合わせて舞われ奉納するのである。 この三枝祭の祭儀すべてに百合が関わり、此の世の総ての意味が百合に封じ込まれてしまったかのようである。笹百合の強い香りは微風にあふれ、その香りに人々は酔いしれてしまうのであった。 これほどまで優雅で美しい神事は他に類を見るものはないであろう。
天皇とは日本国の象徴と三島は説き、(芸術至上主義)に最も精神性を求めた芸術家であった。それが現代芸術においてその精神性の喪失は確かで、はなはだしいものがある。 その意味で近代ルネッサンスともいうべき明治時代、ことにその前半の芸術には精神性に正気あふれるものが多く見られる。 柴田是真〈1807-91〉の花の丸絵/春夏秋冬の草花、花卉を数多く描いている。 明治宮殿表御殿の攜宴の間、豊明殿に隣接する千種の間の折上格天井に描かれていたものであるが第二次大戦で焼失、かろうじて下図だけは残ったのであったが下図とはいえ見事な作である。 百合の花は日本原産が多く、数多く描かれていて、姫百合、早百合、鹿子百合、鉄砲百合、野百合、鬼百合、紅透百合、笹百合などその丸絵は美濃紙に墨、 そして棒絵具を溶いたもので混色のわずかな具合によって処理され、その筆捌きは晩年の是真が到達した自在の境地をいかんなくはしらせている。 であるから焼失した本図はどれほどのものであったであろうか・・・。 京都、三時知恩寺の〈四季花卉図〉は、円山応挙の師である石田幽汀〈1721-86〉の草花図に笹百合が描かれている。 花卉の描写は極めて写生的で、風にそよぐ草花の姿がよく捉えられて、応挙の師としての幽汀の存在のおおきさが笹百合を透して見えて来る作でもある。
Tadamasa Yokoyama